スポンサーサイト
東山遊園地

引越のドタバタとお正月ということで、滞っておりました。
あけましておめでとうございます。
子供達を連れて、引っ越し先から歩いて3分くらいのところにある
「遊園地」に行ってきました。
昔、普通の公園のことを「遊園地」と呼んでおりましたが、
すべり台と鉄棒とブランコがある程度のほんとに普通の公園です。
でも、なんだか雰囲気のある公園で気に入っています。
なぜか孔雀が1匹だけ飼われていたりして...

で、こんなものもあったりします。
裸足になって、

ここを歩けということですが、私なんか足の裏が痛くてとても1周することができませんでした。
ところが、6歳の娘やそのいとこ達は平気で走り回っております。
やっぱ、わたくし「健康じゃ無い」ということなんでしょうかね?...
Sailing(その3)

1週間ぶりとなってしまいました。
ま、誰が待っているわけでもなく...
(その3)です。
ホントに楽しかったS先輩のクルー生活に別れを告げ、3年生となります。
私の同期は私を含めて6人残り?ましたが、1年先輩の代はひとりだけでした。
普通なら、なかなか3年生からスキッパー(舵とメインセールを担当する艇長)になることはできないのですが、なにせ先輩がひとりしかおられません。
しかもその先輩は470クラスなもんで、私たちスナイプクラスの3年生3名は、ほとんど自動的に3年生からレギュラースキッパーとなりました。
(大学生のヨットレースは470クラス3艇、スナイプクラス3艇づつのチームレースとそれぞれの個人戦で争われます)
3年、4年と2年間レギュラースキッパーができるというのは、ものすごくラッキーな話ですが、実力が伴っておりません。3年生の時の関西インカレは8位と惨敗し、もちろん全日本インカレには出場できませんでした。
その年の全日本インカレは彦根でありましたが、物見遊山で見に行きました。
伝統ある部の歴史の中で、全日本に出場できないというのは、まったくもって不名誉な話なのですが、負けて悔しいとかの記憶が全くありません。3年生の間にも色々なレースに出場しているのに、その記憶も飛んでしまっています。
必死になってヨットに乗っていたはずですが、今振り返るとなにかしら取り組む姿勢に欠けるものがあったと思います。
勝負に対するハングリーさというか、ひたむきさというか...
そして、最上級生に。
同期の主将のM君は、ホント速かった。
4年になって関西で出たレースはほとんどトップだったかと。
スタートをミスって出遅れても、いつの間にかフレッシュウインドを受け、上マークではトップに立ってる。そんな彼のコース取りは、「コンピューターのように正確」と評されてました。同期の他大学の方には失礼ですが、私にとって他大学の奴など、どうでもよく、ただM君に勝ことだけが目標でした。
勝てなかったけど...
ま、チームとしては、3人とも2年目スキッパーなので「絶対に負けるわけにいかない」という無言のプレッシャーもありました。
M君は別として、私ともうひとりの同期のD君は、いつも出入りの激しいレース展開(トップフィニッシュのあと20位台とか)で、監督やOBの方をやきもきさせてました。
関西インカレに向けては、どこの大学よりも早く練習海面に出艇し、必ず他の大学が練習を終了してからでないと浜に帰りませんでした。
いわゆる「根性練習」と言えばそうなのですが、少なくとも「どこの大学よりよーけ練習をしてきたんや。負けるはずないで」という自信を持つことはできました。
でも、スポーツにおいてこういうメンタルな部分って結構大きいですよね。
迎えた関西インカレは最終レースまでもつれましたが、3年ぶりの優勝をかざることができました。
まえふりがやたらと長くなりましたが、写真は1983年の夏、聖地 江ノ島ヨットハーバーで開催された全日本学生ヨット選手権大会の時のものです。
クルーは1年後輩のO君です。S先輩に殴る、蹴るの暴行?を受けた私は、なんとも甘い先輩で、O君とコンビを組んでいた1年間でたった1回、それもおしりを蹴飛ばしただけでした。(楽勝やったなー、O君)
私は、大会前の現地合宿中におばあちゃんが亡くなり、トライアルレースを欠場して葬式に出席、とんぼ帰りして翌日、本大会を迎えました。
「祖母の死に動揺して」というと聞こえが良いのですが、実際のところ、私はこのビッグレースの雰囲気に完全に呑まれてしまいました。
団体戦で6位と部としては久しぶりの入賞を果たしたのですが、満足感を得ることはできず、「自分の走りができなかった」ことに大きな悔いが残りました。
最近はほとんどなくなりましたが、30代の頃までは、この悔しいレースを思い出し、眠れなくなる夜が何度もありました。
Sailing−ちょっと悔いが残ってます。
Sailing(その2)

というわけで、(その2)です。
(その1)にも書きましたように、私、もともと体育会系ではありません。ですからヨット部に入部したものの、「レース(試合)に勝つ」ということに対して、全〜然 執着がありませんでした。
で、何が私を変えたかというと、1980年の夏、ホームポートの西宮ヨットハーバーで開催された「全日本学生ヨット選手権大会」いわゆる「全日本インカレ」の閉会式です。私が乗っていたスナイプクラスは日大が優勝し、もうひとつの470クラスは同志社が優勝しました。
私はレギュラーチームのクルーでは無かったので、もちろんインカレのレースには出場しておりません。しかし、日大と同志社が表彰されているのをまのあたりにし、どういうわけか無茶苦茶くやしい思いにかられました。「関西インカレでは、けっこう余裕で優勝したのに、なんで全日では全然刃が立たないんやー?!」ちゅう感じです。
そして、思います。
「やっぱり、スポーツは勝たなあかん!!」
この日をさかいに、私は「勝つ」ことに非常に執着を持つようになりました。
そして、2年生に...
1年先輩の代が、ひとりしかおられなかったこともあり、2年生からレギュラークルーです。
これまたラッキーというべきなのですが、私をクルーに指名してくれたのが、時の主将 S先輩です。
この人は(その1)に書いたU先輩のクルーとして全日本インカレ個人戦で優勝を勝ち取った方です。そして、Gutsのかたまりのような「燃える人」でした。練習においてもレースにおいても燃えまくり、私は、(ちょっとした)ミスに「怒鳴られ」「殴られ」「蹴られ」「唾をはきかけられ」ながら、地獄のような2年生時代を過ごしたのです。(このころの私の写真を見ると、実際、目の回りが青く撮ってます。)
これがレースで勝てれば報われるのですが、優勝を信じて疑わなかった関西インカレは、まさかの団体戦予選落ち、かろうじて出場できた全日本の個人選でも、強風の中走りまくったにもかかわらず、トップフィニッシュしたレースで痛恨の失格をし、着順では準優勝のはずが、結果は20位と最後の最後まで悲惨なことになりました。
写真は福岡県の小戸ヨットハーバーで開催された、全日本インカレ個人戦の時のものです。写真だけではわかりませんが、この写真の時も明らかに怒られています。今だから言いますが、私はノートのカレンダーに丸印を書き、毎日丸印を黒く塗りつぶして、S先輩のクルーが終わる日を楽しみにしていました。
でも、このつらい1年が私を強くしたのは間違いありません。
実際、あのつらさを思えば何でもできますよ。
S先輩ありがとうございました。
この続きは(その3)にて...
Sailing(その1)

今の私からは想像しにくいと思いますが、大学の時は「体育会」でした。
「ちわーっす!」ちゅう感じで、「体育会ヨット部」に所属しておりました...
中学の時は卓球部(途中からほとんど練習に出ず、洋楽にのめり込む)、高校では軽音楽部(グレコのストラトかき鳴らし)と来て、大学から「体育会」です。
ほとんど180度以上の方向転換ですね。
実際、回りの友達たちは驚きましたよ。
でも、なんとなくなんですが、けっこう早い段階から「大学に入ったらスポーツしよ!」とか思ってましたし、今考えても不思議なのですが、入学式の前の段階で「たぶん、僕はヨット部にはいるだろう」という予感がありました。
で、ヨットとの出会いなのですが、私が小学校の高学年の頃「体育会柔道部」出身の親父が、どういうわけか「ヨット教室」なるものに通いはじめまして、ひととおりヨットの操船を覚えた段階で、私を貸しヨットで海へと連れ出してくれました。「これがすっごく楽しくて」とか「海を走ることに感動して」とか言うとかっこいいのですが、全然そんなことは無くて、その時私がどう感じたのかは全く覚えておりません。
ただ、その時乗ったヨットがどんなヨットだったかとか、親父がどういう風に舵を動かしたのかとか、クルーの私にどういう指示をだしたのかとかいうことを、異様に鮮明に覚えており、その情景だけが今でもフラッシュバック的に頭の中に浮かんできます。
とても不思議なのですが、そういうフラッシュバックが、上に書いたような予感につながったのではないかと思います。
というわけで、1980年の4月、私は大学に入学すると同時にヨット部の門を叩いたのです。
そして、「はまり」ました。
写真は1980年の9月に、千葉県の稲毛ヨットハーバーで開催された国体の時のものです。80年は栃木国体だったのですが、栃木には海が無いので、ヨット競技はお隣の千葉で開催されました。
「1年生から、国体出場ですか...」と感心される方もおられると思いますが、もちろん私に才能があったわけでは無く、一緒に出場した人が無茶苦茶上手だったのです。
国体に連れて行っていただいたU先輩は、前年度の全日本インカレ個人戦チャンピオンで、新聞社に入るために留年をし、ヨットも続けておられました。普通なら少なくとも1年生の間は、ほとんど下働きで終わり、実際にヨットに乗れることなどほとんどありません。それが、どういう理由かわかりませんが、U先輩は私をクルーに指名してくれたのです。1年生で実際にクルーとして練習し、ビッグレースにも出場することのできた私は、本当にラッキーでした。
このように、ヨットの楽しさを知り、夢中になり、ハッピーな1年生時代を過ごした私ですが、人生、そう甘くはありません。
2年生で地獄を見ます。
このお話は(その2)にて...


